水窪に製紙工場を起こし養蚕業をも盛んにした湯浅麟三郎
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湯浅麟三郎(ゆあさりんざぶろう)は.安政五年(1,858) 領家村水久保(現在水窪本町)に生まれました。
麟三郎の家は.古くから 造り酒屋を営んでいて、当時の水久保では大きな老舗でした。
安政5年といえば.アメリカ合衆国のペリーが、日本に開国を求めて来航した後で、井伊直弼が大老となり、
日本とアメリカの間に修好通商条約が結ばれただけでなく、日本は内外共に多難な時代を迎えていたころでした。
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明治に入って、市政・町村制が交付され、自治制度が行われるようになると、麟三郎は農山村村会議員・
部会議員・奥山村村長など、多くの役職につくと共に、養蚕業の発展にも努力しました。
当時、村で養蚕を営む農家は、わずか40~50戸であり、養蚕の方法も小規模なものでした。
こうした状況の中で麟三郎は養蚕業をこの地域の人々の生活を支える産業にまでさせるには、どのようにしたら
いいのか常に悩みつづけておりまLた。
開国した明冶初期の日本で、国の経済を支え、国家の繁栄に大きな役割を担っていた産業のうち 軽工業では
製茶や紡績などが主なものでした。
多くの織機はヨーロッパから輸入され、技術者も日本にやって釆て、新しい知識や枝術が日本のの各地の会社や
工場に取り入れられ、生産が行われている時代でした。
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鱗三郎は、このような時代の中で、この山奥の村にイタリア式製糸工場を設置し、細々と行われていた
村の養蚕業に大きな希望をあたえたのでした。
これは麟三郎が、養蚕業の必要性を理解したことだけでなく、それを育て発展させるごどが、郷土水窪に
対する産業の向上につながることであると考えていたからです。
そうした努力の結果、村の養蚕農家は年々増え、それと共に繭の生産も大変増加していったのでした。
その頃、この製紙工場で働く女工の多くは、初めのうちは遠く信州や三河の人たちでしたが明治21年
富岡式製紙工場に改められ 釜の数もイタリア式より2倍の50釜に増設されると さらに生産は高まり、
村内はもとより多くの村の人たちも 女工とLて働くことができるようになりました。
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このように、村内に製糸工場が設立され、その生産量が増加するにつれて養蚕農家は一層多くなり、
明治30年ころには数百戸以上に発展をしました。
ところが同年5月、火災の発生により不幸にも以後10年間製糸工場が休業したことは発展途上に置ける
奥山村も養蚕業にとって大きな痛手でありました。
しかし、その後、麟三郎をはじめとする心ある人々の産業発展にかたむける情熱と根性は再び北遠の地に
養蚕をさかんにし、一時期衰えた奥山村の人々の生活に活気をとりもどしたのでした。
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一方、村長としての麟三郎は教育に対しての関心が強く、深い理解を持っていました。
特に義務教育の充実と、そのための施設設備の整備には、村長の給料を校舎建築費用の一部にあてるなど、
私財をかえりみないで献身的に村の為につくしました。
このような麟三郎の姿は、多くの村民の信望を集め尊敬されていたのです。
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