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水窪町地頭方河内浦の山住家
屋敷の巨大な石積み
礎の大石には
「石積記念 山住雪江 山住重治
石工大沢丑太郎 同平出寅一
明治三十七年六月十日」と
刻まれています。 |
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元水窪町は 現浜松市の中でも1番の広大な面積(27,117ha)を持ち しかもその
ほとんど(96%)が山地です。
そこには すぎ・ヒノキをはじめ多くの樹木が茂り「水窪材」として広く知られてきま
した。
これは、先覚者をはじめ多くの山林経営者による長年の努力によって築き上げ
られたものです。この山林によってわたしたちの町全体が多くの恩恵を受けてき
ました。
このような植林事業、山林経営は、いつ頃から行われるようになったのでしょう
か。
山住大膳亮の考え
山住大膳亮は、植林事業の先覚者として知られ 河内浦の山住家第23代当主
で、神職を務めた人です。
大膳亮は、山間の不便な土地に住みながらも学問によく励んだので世の中の
動きなどいろいろな知識を持っていました。京都、江戸をはじめ各地を訪れ、よ
その土地の様子も詳しく知っていました。
当時、水窪の山の木は自然に生え、そして 育つに任せていたのです。その
ため、山は荒れるばかりで、大雨でも降れば、山崩れや、川が」氾濫して、その
被害も少なくありませんでした。
大膳亮は、「木を育て、立派な緑の山にすることは 何十年もかかる仕事だが
後々の人たちにのためにも役立つことになる。どうしても今やらねばならない」
と、決意しました
そのためには、自然に生えている木を切ったり、りっぱな苗木を植えることから
始めなければなりませんが、その苗木はこの土地にはありません。どうしてもよそ
の土地から求めなければならず、遠くは伊勢や三重県の熊野まで出かけ苗木を
集めました。
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水窪美林のもとを築く
その頃は、今とは違い道路も悪く、乗り物のない不便な時代ですから 遠くか
ら苗木を運ぶということは、大変な日数と労力を要しました。
大膳亮の日記の一部を見ると「元禄9年2月、山に苗木を植え始めることにし
た。そのため杉、桧苗3万本を伊勢から運ぶこととした。まず、伊勢から海上を
船で豊橋の吉田まで運び、そこから新城までは川舟を使って登る。新城からは
人や馬の背で運ぶしかなく山道を何日もかかって運ぶしかない。」と書かれて
います。伊勢から運ばれる苗木を枯らさず運ぶには大変な苦心がいったことと
思います。
その後、大膳亮が没すまで48年間に 実に36万本にも及んだということです。
このように多くの苦労と費用をかけて植えられた木はその後、山住杉と呼ばれ
明治、大正時代東京市場などでその名が知られたということです。
大膳亮による植林事業は、多くの人たちに植林や木を育てることの大切さを
教えました。そして長い間かかって、植林が広く進められてきました。
大膳亮は、植林事業を進める傍ら、神領の貢納責任者や神職としてもよく務め
学問もよく身に着けましたので多くの人たちから尊敬され延亨元年(1744年)
惜しまれてこの世を去りました。 |
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